五年生  記 入 者
 HP-URL :昼サイ:2002年4月19日(金)PM4:11:32
:無記入

善く生きることの地平: プラトン・アリストテレス哲学論集

善く生きることの地平: プラトン・アリストテレス哲学論集

自分は天才なので四年で卒業させてください!
Res.無 題:土橋
HP-URL:無記入:2002年4月19日(金)PM7:54:53

はい、なんとかしましょう。ところでこの文章は、前半と後半のつながりがよくわかりません。昼サイさんは天才である。これは別に問題ありません。天才なので四年で卒業させてほしい。ここがわかりません。つまり、天才だから四年で卒業できて当たり前、だから四年で卒業させろ、という意味ならば、現在五年生であるという事実(「五年生」という題名が、昼サイさんが今年五年生になった、という事実を意味しているならば、という仮定に立っています)によって、四年で卒業できなかったのだから結果的に天才ではないと判明した、ということになるはずです。しかし、昼サイさんは天才なのですから、その結論はおかしい。となると、天才なのに四年で卒業しなかった理由は、四年で卒業しなかった過去(歴史の一部)さえも変更しうるほど天才であることを敢えて人々に示すためだったのでしょうか。つまり、天才(神)であるにもかかわらず、五年生(人の子)として<受肉>した昼サイさん(イエス)は、留年という十字架の<受難>において、四年で卒業という超自然・奇跡的な<復活>を実現すべく、この多摩の丘に天から降り立たれたのでしょうか?だとすると、凄い。少なくとも僕は、洗礼者ヨハネにも、ピラトにもなれないし、ましてユダにもなれないだろうから、せいぜい名もなき市井の民として、昼サイさんの奇跡を見守っていくことにします。
しかし、もし、昼サイさんが現在四年生で、単に五年生になりたくない、という意味で「五年生」という題名をつけ、その上で、だから四年で卒業させてくれ、ということならば、当たり前すぎて全然おもしろくありませんね。