多くの大人たちは、こうした美学を一笑に付すだろう。センチメンタルな悩みだと拳を握りしめるだろう。
彼らにはもっと切実な問題があるからさ。それは、まず食っていけるかどうかということだ。そして、妻子を養うこと、親を養うこと、この日本を世界を良くすること……といううんざりする目標があるからさ。

このすべてには、じつは「さしあたり」ということばをつけて、さしあたり生きること、さしあたり妻子と親を養うこと、さしあたり日本を世界をよくすること、と言わねばならない。なぜなら、100年すれば親も自分も妻子も地上から消えてしまい、そしていつか人類は滅び、地球も太陽もなくなるのだから。どんなに頑張っても、結局はすべてなくなってしまうのだから。

マジョリティ=善人とは、こういうセリフを手で払いのけて嫌がる者のことだ。こういう「非現実的な」台詞を。ぼくにとっては何よりも現実的なんだがねぇ。

親よりも祖国よりも自分の美学が重要だと考えるきみやぼくのような男は、マジョリティが支配しているこの世の中では随分迫害される。なんというエゴイストかと嫌われるであろう。お決まりの台詞がぼくたちを待ちかまえている。結構な身分じゃないか。おれたち汗水たらして、屈辱的な思いをして毎日必死な思いで生きているのに、やれ宇宙だ、美学だとうつつを抜かしていられるんだから、と言う。

こうした反感はわからないこともない。それは「さしあたり食っていかねばならない」者の真実の叫び声かもしれない。だが、最近ようやくわかったのだが、そのうちでもサラッと反感をもつのではなく、きみやぼくのような人間を執拗に迫害するものは、たぶん心の奥底では自分の自己欺瞞に気付いているのではないか。「食っていかねばならない!」と絶叫しながらも、それが実は唯一崇高な生きる理由ではないことをうすうす感づいているのだ。生きていかねばならない。だが、何のために?そうした疑惑がフッと湧きあがる。だが、たちまち心の中でハエを振り払うようにそれを必死に振り払うのだ。こんな「馬鹿げた」問に振り回されてはならない、と。

p.142~144/カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ