つーか、この本のあとがきが

言ってることが俺と全く一緒だったりするシンクロしている部分が多数含まれているような気がするので引用しておく

ひろさちやのまんだら漫歩録
「出家」はホームレス

”乞食””こじき”と言う言葉は、差別用語らしいのです。
私は前に、ある雑誌にこんな話を書きました。
インドの話しです。ある少年が父親に、「お父さん、僕、神様に会いたいんだ」と言います。すると父親は、
「お前が心を美しくしていると、きっと神様の方からお前に会いに来て下さるよ」と教えました。
ある日、少年が一人で留守番をしていました。そこに乞食がやってきて、施しをこいます。「両親は留守です」と少年が言うと、それならお前のお小遣いを俺に布施しろ、と、乞食がねだりました。
少年は、「僕は小遣いを持っていません」と嘘をついて、乞食を追い払いました。
そして、夕食の時、帰ってきたお父さんに、少年は報告します。「お父さん、僕、上手く乞食を追い払ったよ」と。
「お前、残念なことをしたな。せっかく神様がお前の所に訪ねてきて下さったのに…。その乞食が神様だったんだよ」父は息子にそういいました。
こんな話を書いたのですが、その雑誌の編集者が私に電話をしてきて、この”乞食”が差別用語であるから、別の言葉にしてくれと言うのです。私は、何も乞食を差別した覚えはありません。しかし、一々編集者と言い争うのも面倒なので、じゃあ”乞食”を、ー”ホームレス”ー
にしましょう、と妥協しました。”乞食”が悪くて、”ホームレス”であればいいのですね。おかしな話しです。
ところで、その後、1996年の1月ですが、東京の新宿でダンボールのはこの中に住んでいたホームレスの人達が立ち退かされるという事件が起きました。
私は、これこそ乞食やホームレスを差別していることだと思います。”乞食”といったことばを”ホームレス”に置き換えればいい、現在の日本ではそういう考えが一般化しています。いわゆる差別用語の問題で、差別用語を使うと糾弾されるものだから、差別用語を使わなければいい。差別用語を使わなければ、差別したって構わないのだといった風潮になっています。ホームレスというカタカナにしておけば、ホームレスを差別し、ホームレスを虐待下ってどこからも文句が出ない。そんなおかしな事態になっているのです。
私は、差別用語では無しに、差別そのものがいけないと考えます。

ところで、ホームレスというのは、実はー出家ーなんですよ。仏教で言う「出家」とは、まさにホームレスに他なりません。
その意味では、”乞食”を”ホームレス”と言い換えるのは、正しいのです。
”乞食”は本来”こつじき”と読みました。辞書(『大辞林』)によると、「こつじき(乞食)…1僧侶が人家の門前に立ち、食を求めながら行脚して修行すること。また、その僧。托鉢。頭陀。行乞。2こじき(乞食)に同じ。…」
とあります。乞食は僧であったのです。しかし、日本のお坊さんは僧であることをやめてしまった。前週のお坊さんが時に托鉢をすることもありますが、時たまです。だから、お坊さんはパート・タイムの乞食で、フル・タイムの乞食ではありません。フル・タイムの乞食は「こじき」になったわけです。
ともあれ、乞食は出家です。そして、出家はホームレスです。
仏教の開祖のお釈迦様は、ホームレスだったのです。そして、お釈迦様の弟子達も全員、ホームレスでした。
だから、私は、ホームレスを「けしからん」と非難する人は、お釈迦様の生き方を否定していることになると思います。お釈迦様の生き方を否定することは、つまりは仏教を否定したことになります。
仏教者であれば、ホームレスを肯定すべきです。ホームレスの人達を見て眉をひそめるのは、お釈迦様に非難の眼差しを送っていることになるのですよ。私はそう考えています。

「でも、先生働かないことは悪い事じゃないですか。”働かざる者、食うべからず”と、私は教わりました。やっぱりホームレスの人達は良くないですよ」
あの新宿のホームレスの矯正立ち退き事件の後、それが話題になった席で、あるご婦人がその様に言われました。ホームレスは出家である。だから、仏教者はホームレスの人達を本当の出家として敬うべきである。その様に主張した私の暴論に対して、彼女は反論してきたのです。
その気持ち、よく解ります。ホームレスの人達に対する、それが一般世人の考えだと思います。
そして、私の意見は暴論です。私はそれをよく承知しています。
でもね、にもかかわらず、私はやはり言いたいのです。仏教においては、働くことをそれほど重要視していません、と。
釈迦その人が、当時の社会のエリートである婆羅門から、「お前も食べるために働いたらどうだ!?」と非難を受けたことがありました。そのとき、釈迦は、「私もまた働いている」と答えておられます。
「信仰は種子、苦行は雨。
智慧は鋤、ざんはその柄。
禅定はその縄、正念は鋤先と突き棒。
身とことばを守り、節食し、
信によって草刈りをする。
……。」
このように、自分も働いていると言われるのです。ということは、世間での労働だけが働く事じゃない。ホームレスの生活だって労働なんだーーと言うことになりますね。
ともあれ、働くことを至上命題としないこと、それが仏教の考え方です。
でも、私がこう言えば、きっと反論があるだろうと思います。仏教においても、
「一日作さざれば一日食らわず」
と言うではないか、と。
確かに、その通り。これは、中国唐代の禅僧百丈壊海の言葉です。
百丈は80歳になっても、日々の作務を続けていました。作務とは、前週に置いてする農作業、清掃などの作業です。高齢の師が、作務をやっているのを案じた弟子達が、ある日、作務をやめさせようとして道具を隠してしまいます。百丈はその日、作務が出来ません。そして、その日の食事もしようとしませんでした。なぜか?と問う弟子達に言ったのが、この言葉です。
したがって、おわかりのように、作務は労働ではありません。これは、ー修行ーなんですよ。そうすると百丈の言葉は、「一日修行しないならば、一日食わない」と言うことです。「働かざる者、食うべからず」ではありません。その点を誤解しないで下さい。
それになにより、私達が働くことを至上命題にしますと、働いていない人を軽蔑するようになります。いや、働いていないホームレスの人達を軽蔑するばかりでなく、自分と他人を比べて、自分より働いていないように見える他人を軽蔑します。これは差別の思想です。他人を差別して、自分が優越感を味わうのです。それは仏教の教えではありません。
仏教の考え方だと、働ける人は、自分が働けるという恵まれた立場にあることを感謝すべきです。世界中の人間がみんな日本人のように勤勉に働けば、エネルギー危機になり、地球上の資源は枯渇してしまいます。日本人の勤勉は、アメリカの労働者の職場を奪っている可能性があります。アメリカが、「日本は失業を輸出している」と日本を非難するのも、理由のないことではありません。日本人が勤勉でいられるのは、インドやアフリカの人達がのんびりと生きていくライフ・スタイルをとってくれているおかげです
働くということは、特に働きすぎるということは、ある意味で他人の職場を奪っているのです。
だから、働けるという恵まれた立場にいる人は、働いていない人に「ありがとうございます」といった感謝の気持ちを持つべきなのです。まかりまちがっても、働いていない人を非難すべきではありません。
いずれにせよ、出家はホームレスです。
仏教はホームレスの人達を非難してはいけません。私はそう思います。
とはいえ、行政的にホームレスの人達を強制退去させるのはけしからんと言っているのではありません。行政の問題はまた別です。私はただ、仏教の「差別」に対する考え方を書いただけです。

p.147~最澄の願い (仏教コミックス―仏教に生きた人たち (84))
やっぱりね〜(笑)
仏教はニートの味方だね
ニートを職業にしちゃえば良いんだよ!
日本人は失業を輸出して居るんだよ?

  • あと、ニートがよく言われる働かざる者食うべからずの回答も含まれていますね
  • しかし、ハードカバーの棚での仕入れ

漫画を一冊掴んで
その本にこれが書いてあるんだから
なんか、ミラクルっぽいですね(^_^;)